実力なのか運なのか

最近 SNS を見ていて、「人に努力をしろ」と勧めにくくなった、「もっと努力した自分を称えるべきでは」といった内容の投稿を見かけました。 この他にも「運も実力の内」、と言ったり、「運は実力によってカバーできる」といった言説があります。

いくつか本を読んで自分の中で思ったことをまとめて書こうかなと思います。

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何かしら成功する際に、自分の実力と運が両方必要になるケースがあります。例えばプロのソフトウェアエンジニアになるとして、そもそも実力が足りなかったらなれませんし、一定以上の規模の会社で働こうと思った場合は面接があったりするので、面接官との相性だったり、たまたま出てきたコーディング試験が得意な問題だったといったような事があるでしょう。他にもプロ野球選手になるというケースでも実力はもちろん、たまたまスカウトが見に来た時に運良く活躍するケースもあるでしょう。こういう人のことを「持ってる人」と言ったりしますよね。これは「特別な運を持ってる人」という意味で使われるケースが多い気がしています。

つまり何かしら成功する時に「運」と「実力」の両方が必要だという感覚はほとんどの人が持っていると思います。

運と実力
運と実力

ここで実力というのが足りない時に実力を伸ばし、目標に向かっていくのが「努力」と呼ばれる行動です。 逆に「運」というのはこちらが調整できないモノを指している事が多いです。

努力のイメージ
努力のイメージ

そういう「運」と「実力」を対比した上で、上のイメージで言えば、運の要素に頼らないくらいの実力を身につければ関係ない、という話が「運は実力に寄ってカバーできる」という言説です。

運と実力のイメージは正しいかどうか

さて、実力と運という対比でものを見ていると上のイメージは理解しやすいのですが、実力と努力と運というのはそう簡単なイメージで片付けられるものでしょうか。 最初から実力を強く身につけている人は少なく、何かしら努力して手に入れてきていると思います。ただ努力するという機会に恵まれているという事は、そもそも「こちらが調整できないモノ」である事が多いと思います。家庭環境が裕福だった事によって私立受験する人は多いと思いますが、家庭環境が裕福という事が既に大きいアドバンテージになっています。これは最初から調整できるものではありません。同じようにソフトウェアエンジニアに多い、「家に最初からパソコンがあった人」というのもそういう機会に恵まれた人だと思っています。

つまり、努力と実力と運といった時に結局努力できる機会も「運」によってもたらされているものなのです。

実力部分も運から来ている
実力部分も運から来ている

そういう事を教えてくれた本が、「実力も運のうち、能力主義は正義か」という本です。

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この本の中では努力を誇ることを「エリートの傲慢」と痛烈に批判します。著者は現代社会の能力偏重な状況を良いと思っていないわけです。本には「そういった能力偏重主義は不平等さを加速させる」という話が出てきます。ただ間違っちゃいけないのは「努力を誇ること」を批判しているのであって「努力そのもの」を批判しているわけではないです。

なんで努力を誇ってはいけないのか

「努力を誇る」というのは成功者の特権のように扱われています。努力したこと自身が大変だったということは理解しますが、実際には努力している影で支えている人たちが居ます。また努力できる機会にすら恵まれなかった人たちも居ます。上述した本の中には「そういったエリートの傲慢さが分断を産み出している」という非難をしています、これが昨今のコロナのワクチンクーデターや brexit 、トランプ政権誕生といった話につなげています。

この本の中で著者は「社会的に評価される仕事の能力を身に着けて発揮すること」は否定していませんし、むしろ推奨しています。一方で、「努力を称えて努力した人としなかった人に優劣をつけること」は否定されています。

人はスタート地点からして不平等であり、その中で実力をつけながら努力することはどうあれ必要です。ただ努力を称えることは能力主義に繋がります。能力主義は「不平等の存在はもはや是正できないため、不平等を正当化する」事で成長を刺激します。ただこれが行き過ぎてしまうと不平等による格差が生まれ、分断が生まれてしまう事を著者は危惧しており、それを社会的に変えていかなければいけないという話に展開しています。

この本自体は割とそういった社会に対してのテーマを語っているため、個人個人でやれることは少ないのですが、一つあるとすると「努力をしたことを誇る」という事をやめて、「周囲の人達へのサポートに感謝し、運が良かっただけである」という自覚をする事ができることなんじゃないかと思いました。

運の利益率

もう一つ本を紹介します。ビジョナリー・カンパニーZEROという本の中に、企業や経営者がどうやって成長していくかという話があります。

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この本の中で「運の利益率」という話が登場します。「偉大な企業の中で多かれ少なかれ運に恵まれた企業はあったものの、 "運だけ" で成長したという企業は存在しなかった」という話が出てきます。言い換えると「運という要素をどう活かしたか」が経営ひいては企業の成長に欠かせない要素であることを挙げています。

この事を運の利益率という言葉で語っていました。これは個人においても同じことが言えるのではないでしょうか。要は恵まれた運をどうやって活かすか、運の利益率を挙げていくには結局努力は必要なのです。 これらの本は努力を否定しているのではなく、むしろ推奨していて、ただし分断を産まないようにしないといけないのです。

まとめ

運か実力かといった議論が若干的を外した感じでお互い議論しているのを見てきました。言いたいことは結局シンプルで、努力はしないといけないけど、成功したとしても運に恵まれたことを感謝するべきという話ですね。 昨今の親ガチャなどにも通じる話かもしれません。親が良かった・悪かったというのが運の要素によって左右されていることをガチャというソーシャルゲームの要素で表した皮肉な意見ですが、分断が産まれている現状においてはこういった話も大いに有り得そうに思えます。

自分は「努力は努力できる機会に恵まれた人の権利であり、最大限に利用できる範囲で利用する。そのおかげで成功したとしても自分の努力のおかげとはみなさず、運の要素によってもたらされたものである」という考え方を持っていこうと思っています。